玉造温泉の再生を手掛けたキーパーソンの角幸治さんのしくじりストーリー!?

こんにちは!
マラソンタレントの加納由理です。

今回のインタビューアーの加納由理です

加納由理
北海道マラソン優勝や名古屋国際女子マラソン優勝、ベルリン世界陸上の女子マラソン日本代表(7位)などの活躍を納め、2014年に現役を引退。現在は「生涯ランナー」をモットーに、ランニングを通して、「運動する喜び」や「続けることの大切さ」を伝えている。兵庫県出身。両親が島根県出身ということもあり、島根と全国の架け橋として、ふるさと親善大使の「遣島使」にも就任しました。

前回に引き続き、島根県シリーズ第二弾です。
(第一弾は、足立美術館隣にある温泉旅館竹葉の女将さんの記事)

今回は、島根県を代表する温泉の一つでもあり、1,300年の歴史があり、古くから”神の湯”とまで言われている玉造温泉が舞台。私も、今回島根県に訪れたきっかけは、玉造温泉が舞台の玉造ハーフマラソン大会です。その玉造温泉の再生を志し、玉造温泉がある地域のまちづくりに取り組んできた渦中の一人、角幸治(すみゆきはる)さんに、玉造温泉の地域活性の取り組みを、ご自身の経験と失敗談を通してご紹介していきます!

題して、「俺のようにはなるな!?歴史ある温泉街を再生したキーパーソンの失敗談から学ぶ地域創生の取り組むリアルな現場」ということで、角さんの波乱万丈ストーリーをお楽しみ下さい!

玉造温泉に携わるきっかけ

最初は、玉造温泉の旅館で働き始めたのが、玉造温泉との最初のきっかけです。

もともとは、ブライダル系の企画や演出の仕事をしていました。それまで、高校を卒業してから、5年で12回という転職回数もあるように、いろんな職業を転々とした中で落ち着いたのがブライダルの仕事でした。これは、自分にとって天職だと思い、お客さまに喜んでもらうためにはどうすればよいかと、試行錯誤をしながらする日々は凄く楽しくやりがいを感じていました。おかげさまで成果もメキメキと伸ばして順風満帆でした。

ブライダルの仕事時代の角さん。若い頃からイケメンでモテモテだったとか・・・

ブライダルの仕事時代の角さん。若い頃からイケメンでモテモテだったとか・・・

最初の人生の大きなしくじり

ところが、ブライダルの仕事を初めてちょうど3年くらい経ったタイミングで、別の事業に移ってほしいと言われてしまいます。簡単に言うならば「リストラ」宣告です。

なぜ成果もあげていたのに突然リストラを言い渡されたのか。

それは、「自分がやりたいようにやれば良い」と思って仕事をしていたので、周りの働く仲間や特に上司とはお世辞にも良い関係とは言えない状況でした。仕事に対しては情熱を燃やしてやっていましたが、あくまで矢印の向きはいつも自分向き。あまりにも自分中心に考えていた僕に対して、会社が見かねたのだと思います。

正直、自分自身は仕事に対してやりがいを持ってやっていたので、ある日突然に「お前は不要な人間だ」と突きつけられた気がして、ひどく落ち込んでいました。それまであまり経験したことのなかった大きな挫折でした。うつ病のような状態にまで追い込まれていた中で、ご縁があって、半ば拾われるような形で、玉造温泉の旅館で働けるようになったんです。

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失敗して気づいた「誰かのために」という感謝の気持ち

それで失敗して気づけたのもあって、まずは拾ってもらったこの旅館に恩返しをしようという気持ちで一念発起しました。

旅館で働き始めた当時、僕は26歳くらいだったのですが、仕事を教えてもらったのは僕より職場の先輩だった19歳の女の子だったりしたので、正直、色んな感情が湧き出ましたが(笑)、全ては自分のためにではなく働く仲間や拾ってくれたこの旅館の恩返しだと思い、愚直に働きました。

その結果、お客さまや仲間のためにという気持ちで目の前の仕事にも打ち込み、運も味方して成果を出すことができ、役職もいただくなどどんどん活躍し、出世していくこともできました。

予算を投じて旅館のPRに成功するも、お客さまは減っていくばかり

旅館のPRのために広告宣伝費として数百万単位での予算を任され、旅館に来て下さるお客さまを増やそうと試行錯誤した年がありました。結果的に、手応えなども感じたものの、数字だけ見ると売上が前年度比の100.1%でした。100.1%というのは、ほぼ変わらない数字です。多額の予算を投じたにもかかわらず、昨年と横ばいの結果は、ほぼ効果が無かったとも言えます。ところが、旅館の社長を始め、周りからは「よくやった!」と声をかけられ、他の旅館の話を聞くと、景気の影響などもあって売上は激減していたようで、その状況下は奮闘していたことがわかりました。

当時、10年後はどうなってしまうのか?と地元の人たちは不安に思っていたとのこと

当時、10年後はどうなってしまうのか?と地元の人たちは不安に思っていたとのこと

また、温泉街に並ぶお店がどんどん廃業していき空き家が目立つようになり、2005年(平成19年)度には、玉造温泉の旅館の4件が経営破綻してしまいました。確かに、うちの旅館のことだけを考えると、そんな苦しい状況の中で売上を落とさずに経営できていることは評価もしてもらいました。ただ、このままいくと、長い目で見たときに、玉造温泉という1,300年も続く歴史ある温泉街が無くなってしまい、最終的にはうちの旅館やこの町自体が潰れてしまうんじゃないか、という危機感を覚えました。

この頃から、私は、自分の旅館だけではなく、旅館のある玉造温泉やこの地域のために役立ち、歴史あるこの土地に再び活気を取り戻したい!と温泉街の再生を志すようになりました。

旅館から、温泉街の再生へ

とはいえ、自分は、旅館の社長に拾ってくれた身でもあったので、拾ってもらった恩を返すという使命と、温泉街の再生という志どちらを選ぶかという葛藤もありました。

そこで、正直に自分の気持ちを社長にぶつけたところ、実は玉造温泉の旅館のオーナーたちも同様に危機感を持っていることがわかりました。「このままでは、自分たちの旅館はおろかこの温泉やこの町が無くなってしまう」と。

悩みに悩んだ末、自分の旅館の範疇で取り組んでいても温泉街自体がなくなってしまっては元も子もないということで、温泉街の再生に取り組むようになります。

温泉街再生への二本柱

玉造温泉に再び活気を取り戻すために、大きく2つの改革を展開していきます。

1つは、既存の観光協会の体制を変えたことです。
これまでは、観光協会の運営や事務局を行政が主体となってやっていましたが、民間の経験がある人間を入れて新しい発想で観光協会から玉造温泉を盛り上げていこうと考えました。こうして、民間の人間として、観光協会の職員となります。

今の玉造温泉観光協会・旅館組合「たまなびや」

今の玉造温泉観光協会・旅館組合「たまなびや」

もう1つは、行政に頼り切らず身銭を切って自分たちからも改革をしていくという強い決意の下、玉造温泉街の旅館オーナーたちがお金を出し合い、玉造のまちづくりを専門でしていく合同会社を設立します。僕はここにも事務局として参画をし、玉造温泉の観光協会の職員でありながら、民間のまちづくり専門会社「玉造温泉まちデコ」の社員という二足のわらじを履いて、温泉街の再生に取り組んでいくことになりました。

盤石な体制と思った矢先、立ち行く暗雲。最大のしくじり

温泉街に活気を取り戻す体制は盤石に思えたのですが、なかなかそう簡単にはうまくいきませんでした。

まず、観光協会で、大きなしくじり、つまりは失敗をしてしまいます。それは、新しい体制にしていくということが、当時在籍していた観光協会の職員全員にうまく伝わっていなかったのです。僕が観光協会の職員として出社したタイミングで、新体制になることを知った方もいたくらいで、僕もその時は何も事情がわからなかったので、戸惑いしかありませんでした。(苦笑

結果的に、既存の人たちを置いてけぼりにしてしまった改革が裏目になってしまい、これまで携わっていた方からの引き継ぎはもちろん、連携もうまく取れず、組織自体が機能しなくなり、僕は孤立してしまったのです。

さらには、まちづくりのために立ち上げた会社「まちデコ」でも大失敗をしてしまいます。

その最たるは、「初代 玉造キラキラみすと」の商品開発と販売です。

初代玉造キラキラみすと

初代玉造キラキラみすと

実は、他の温泉街で成功していた話を聞いて、玉造温泉でも同じことをやれば成功するだろう、と安易な考えからスタートしたのがきっかけです。そこで耳にした「どうやらこのやり方は儲かるらしい」ということを鵜呑みにし、「1本この商品が売れれば、いくら儲かる」という発想でこの商品を企画・販売を始めました。さらに、温泉街の活性のためという大義名分を掲げ、旅館へ押し売りのような形で数をさばくーというように、買い手のお客さまのことなどは考えずに、ただひたすら売上をあげることだけを考えて行動していました

他にも、様々な取り組みを仕掛けていったのですが、結局はどれも不発に終わり、気がついたら、会社の預貯金口座の残高は、資本金として最初は600万円あったお金が、30万円になってしまっていました。

気がつけば、このままではまちデコが倒産するという危機的状況だったのです。

今では玉造キラキラミストは、玉造温泉を代表する人気コスメの一つとなっている

今では玉造キラキラミストは、玉造温泉を代表する人気コスメの一つとなっている

仕事もうまくいかず、ついには身体も壊す

仕事では、観光協会、そしてまちデコ両方で思い通りに進めることができず、相当肉体的にも精神的にも追い込まれていました。ただ、それでもまちデコという会社を潰したくはなかったのと、自分自身の食い扶持もつなぐために、ブライダル時代のつてで、アルバイトも掛け持ちもするようになりました。その時は、本当に先が真っ暗で、どうしたら良いか何も見えてきませんでしたが、それでも必死になって働きましたが、だんだんとプライベートや自分のこともおろそかになり、食事はカップラーメンが続くことも少なくありませんでした。結果、食生活も影響して、糖尿病を患うようになり、入院するまで追い詰められていきました。

ある恩人からの言葉で自分の過ちに気づく

そんな中、仕事もプライベートもボロボロになった私に転機が訪れます。
それは、まちデコのある役員からいただいたお言葉がきっかけでした。

「今やっていることは、玉造温泉やお湯に対する敬意や感謝がないんじゃないか」

それを聞いて、本当にそのとおりでした。

これまで、玉造温泉を再生していくために、

「どうすればもっと人が集まるだろうか?」
「どうすればもっと温泉街の売上が上がるか?」

ということばかり考えてしまい、気がつけばまた矢印が自分向きになってしまっていたのです。

改めて、「なぜ自分がお世話になった旅館を飛び出してまでも、玉造温泉の再生をしたいと志したのか」と、まさに初心に返る機会にもなりました。

そこで、これまでの考えを改め、

「温泉やお湯について自分たちがまず勉強をしてもっと知ろう、そしてその良さを世の中に広まっていけば、自然と玉造温泉街が注目され、人も集まり、商品も売れるようになるはずだ」

と、まずは売上や集客よりも、とにかく地域や周りの人が喜ぶことをやろうと発想を転換。まさに自分自身の中でも、価値観が変わった瞬間でした。

奥に写っているのは市の職員の仲佐さん

奥に写っているのは市の職員の仲佐さん

周りが喜ぶことをしていくと、神様からご褒美がもらえる

再出発をしたタイミングで、これまでまるっきり売れていなかった商品が急に売れるようになりました。きっかけは、全国紙に玉造温泉やその商品が取り上げられるようになったことでした。

当時、世の中はパワースポットブームというのもあり、出雲大社を中心に取り上げられていた記事の中で、小さくですが、玉造温泉のことも取り上げてくれていて、一気に認知度が増えていったのです。

こうして、あともう一歩で倒産だった会社も、なんとか持ち直すことができました。

もし、いつまでも売上をひたすら伸ばすことだけどを考えていたままであれば、本当に会社が倒産してしまっていたかもしれません。ですが、まずは温泉や関わる人たちが喜ぶことをやっていこうと考えを変えて、感謝や敬意を意識して行動するようになってから、実際にたくさんのことがつながっていき、結果的に売上が伸びたり注目されるようになるなどの現象が起きたんだと思います。

また、ほぼ同じ時期には観光協会の新体制にも徐々にですが浸透し始め、これまでは引き継ぎなどに追われていただけの業務から、新しい仕掛けを生むための企画などをができるような体制が整いつつありました。

まさに、「おかげさま」の精神でした。スピリチュアルな力がある方からは「神様がお喜びになっている」とも話してもらいましたが、きっと、自分の知らないところでも、自分が活かされていている。だからこそ、感謝する心を持ち続けよう、そう思った瞬間でした。

会社の売上は地域からの預り金。地域で稼いだお金でさらに地域が喜ぶことを広げていく

会社も続けられるようになり、嬉しい気持ちもありましたが、同時にこれで得た売上は、温泉街やこの土地の人たちから預かったお金だという認識に自然となりました。ですので、預かり金である売上を元に、どうすればこの町の人やこの地域が、もっと喜んで貰えるかという発想で、新しい挑戦にも取り組みました。

例えば、ヒット商品でもある叶い石の生産を、正社員として仕事に就くことが難しいような障がいのある方に作ってもらうことを始めました。これも神様やこの地域の社会が喜んでもらえるんじゃないかという発想から生まれました。また、障がい者への報酬や賃金が、かなり低いことも知ります。叶い石を一つ作ったその報酬は、相場で言うと1〜2円くらいと聞きました。ですが、これは売上をあげるためではなく社会が喜ぶことをやるためにやるので、きちんと働き手も持続できる価格帯の報酬を支払おうと決め、1つあたり報酬を90円としました。結果的に、今でも年間で10万個の叶い石を作ってもらい、さらには島根県内の障がい者の仕事の平均賃金は1位を記録し続けています。

他には、温泉街で空き家になっていた古い家を自分たちで改装してお店を出す取り組みもしています。その代表例は「姫ラボ」です。姫ラボは、玉造温泉の温泉成分を研究して、温泉コスメなどの商品開発を通して玉造温泉の魅力を発信していくために作られた研究所であり、お土産屋でもあります。

県内外から温泉コスメを買い求めに来る人が集う姫ラボ。Webでも購入することもでき、そのレビューは高評価が並ぶ

県内外から温泉コスメを買い求めに来る人が集う姫ラボ。Webでも購入することもでき、そのレビューは高評価が並ぶ

このような空き家の多くは大家さんが70歳を越えているなどご高齢な方が多く、手放すことも難しければ、新たな利用者を見つけるために家の片付けや改装を自分たちですることが難しい方がほとんどです。そこで、自分たちが売り上げたお金をもとでで、無償で建物の改修までを行い、新しく観光客向けのお店を出店する取り組みも始めました。今では4施設あります。これも、地域の人たちが喜ぶことは何か?ということを考え、自分たちが地域のおかげで得たお金を使った取り組みの一つです。

角さんが思う一番大切なこととは

気づけば、社員だったまちデコの社長となり、社員やパート含めて40名の組織となりました。また、毎年大勢の方が玉造温泉に足を運ぶようになっていただき、町も昔と比べるとかなり活性化してきていると思います。

改めて、僕自身が経験してきたことを振り返っても決して順風満帆な人生ではありませんでしたが、その時その時で手を差し伸べてくれる恩人や神様からチャンスもいただくなど本当に運が良かったと思います。そしてその運は、仕事はお使えをすることであり、周りに感謝や敬意を忘れずに続けていくことで、引き寄せることができたのかもしれません。

だからこそ、26歳でリストラされ、35歳で倒産危機を迎えた僕が一番に伝えたいことは、

「周りへの感謝や敬意を忘れてはいけないこと」

これからも玉造温泉がより魅力的であり続けるために、そして地域や温泉に恩返しをしていけるように取り組みをしていきます!

総勢40名を超える組織となったまちデコ。社員だった角さんは社長になった。

総勢40名を超える組織となったまちデコ。社員だった角さんは社長になった。

玉造温泉の情報

たまなび(松江観光協会玉造温泉支部)

住所:〒699-0201 松江市玉湯町玉造32-7
電話番号:TEL: 0852-62-3300
公式サイト:http://www.tama-onsen.jp

姫ラボ

住所:〒699-0201 島根県松江市玉湯町玉造46-4
電話番号:0852-62-1556
公式サイト:http://www.hime-labo.com

インタビュアーマラソンタレント加納由理のプロフィール

加納由理(かのうゆり)
公式サイト:http://kanoyuri.run

公式サイトよりプロフィール引用

兵庫県高砂市出身。私立須磨女子高等学校を経て立命館大学経済学部に入学。陸上競技女子トラック長距離種目で無類の強さを誇りチャンピオンとして数々のタイトルを獲得。 卒業後、資生堂に入社し、横浜国際女子駅伝では、日本代表チームの一員として最長区間を区間新記録で走り、優勝に貢献。全日本実業団女子駅伝でも、最長区間を走り、資生堂を初優勝に導く。自身初マラソンとなる大阪国際女子マラソンでは3位になり、世界陸上女子マラソンの補欠に選出。その後、北海道マラソン優勝や名古屋国際女子マラソン優勝など数多くの実績を作り、ベルリン世界陸上の女子マラソン日本代表(7位)や香港東アジア競技大会ハーフマラソン(銀メダル)など国際大会でも活躍を納める。 2014年以降は実業団を一線は退きつつも、「生涯ランナー」を掲げ、ランニングを通して、「運動する喜び」や「続けることの大切さ」などをランニングイベントやランニングスクールの主催や協力を行っている。また、学校やビジネス団体向けにも講演を行うなどでも教育活動にも積極的に取り組んでいる。

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ABOUTこの記事をかいた人

Kento Tanaka

まちづくりラボ運営チーム、編集長。北海道出身(1991年生まれ)。東京のベンチャー企業で、企業のWebマーケティングを中心に、企業の採用コンサルティングや旅館の再生などに携わり、その実績は超有名大手企業からベンチャー企業まで多岐にわたる。2016年に地元の北海道で会社設立。若き道産子起業家として、北海道、そして日本の観光を発信している。